米領グアム島ジーゴ又木山々麓 グアム平和慰霊公苑 修復支援事業報告

 この度戦史検定協会は、11月17日に実施した第四回戦史検定による事業収益を米領グアム島ジーゴ地区にある日本軍慰霊碑の整備支援のため活用することとし、5月16日から18日まで当協会所属会員3名をグアム島へと派遣し、整備に当たりましたことをご報告いたします。
 米領グアム島ジーゴ又木山々麓にある「平和慰霊公苑」は、南太平洋戦没者慰霊協会(South Pacific Memorial Association、以下SPMA)が維持・管理を行っており、グアム島を含む太平洋戦域に於いて戦没された50万余柱の英霊を合祀する表徴的慰霊塔と平和を祈る家を建設し、諸霊位を慰め、世界の恒久平和を祈念するものであります。建立地点である米領グアム島ジーゴ又木山々麓は、小畑中将軍司令官率いる日本守備軍玉砕の地であり、平和慰霊公苑内には小畑中将以下60名が自決したとされる壕があります。
 平和慰霊公苑は昭和45年5月の完成以来、現在に至るまでSPMAが維持・管理をしてきましたが、慰霊塔のペンキは剥がれ落ち、小畑中将以下60名が自決されたとされる壕周辺は、竹藪が縦横無尽に繁茂しておりました。


ペンキが剥がれ、汚れの目立つ慰霊塔

 

現地有志の方々と協力して竹藪を伐採する

 

このような状況を見かね、地元のオコド高校(Okkodo High School)の生徒有志とAmericorpsボランティアの協力を得、合計25名が、慰霊碑修繕および竹藪伐採を行いました。
活動では、小畑中将以下60名が自決したとされる壕周辺の竹藪の伐採のほか、全高15メートルの慰霊塔のペンキ塗りを、足元は人力で、高所については高所作業者を用い行い、慰霊公苑周辺の整備を行いました。


竹藪を伐採する協会員

 

高所作業者でペンキを塗る協会員

 

手の届く所をペイントする協会員

 

これにより、第4回検定助成事業は、検定収入と寄付金から、活動に際し必要な経費のほか、南太平洋戦没者慰霊協会の募る慰霊公苑改修工事、戦歿者石碑建立基金に、「第4回戦史検定受検者一同」名義にて、10万円の寄付を、参加した平野隊員からSPMA青木理事へ手交いたしました。


SPMAの青木氏に目録を手渡す様子

 

これにより、この地域の戦没者ご遺族やこの地域を訪れる方々が、綺麗に化粧直しされた同公苑において、引き続き慰霊を続けられる一助になることを望むものです。


ペンキ塗りをした後の慰霊塔

 

竹藪を伐採後の壕周辺の様子。道が見えるようになりました。

 

 当協会は、戦史検定による収益により維持管理が困難な慰霊碑修復に資金および労力による協力をすることで、今後も戦没者慰霊碑追悼に貢献してまいります。

 

 なお、平成22年度に実施した第1回戦史検定では、財団法人太平洋戦争戦没者慰霊協会を通じて、事業収入をソロモン諸島共和国ガダルカナル島のソロモン平和慰霊公苑の慰霊碑修復と周辺の整備事業資金に、平成23年度の第2回戦史検定では事業収入と寄付金を財団法人福島県遺族会を通じて、東日本大震災で被災した福島県内の慰霊碑修復に、そして平成24年度の第3回戦史検定では、パラオ本島慰霊碑建設委員会の代表、故木村清吉氏の御遺族代表である木村清氏を通じて、事業収入と寄付金をパラオ共和国マルキョク州ゲルレメリク地区のパラオ本島慰霊碑の修復にそれぞれ充てております。

 

※グアム島の戦い
 グアム島は大戦前、マリアナ諸島中の島で唯一米国統治下にあったが、開戦劈頭に日本軍が攻略。その後、日本の絶対国防圏内の要衝として、2年をかけて強固な防御陣地を構築し、米軍奪還が予測される昭和19年には29師、独混48を増派し守備隊は二万となった。
 昭和19年7月21日、米軍は守備隊の三倍の兵力である77師、海兵3師を派遣したが、日本軍はサイパン同様に水際作戦で侵攻を阻止しようとするが、艦砲、空爆等の激しい攻撃による米軍上陸を食い止められず、凄惨な白兵戦やバンザイ突撃を敢行するも、撃破され、7月28日には師団長の高品彪中将が戦死。8月11日に小畑軍司令官がジーゴで自決、日本軍の組織的な抵抗は終結した。米軍は北部に達し、島の完全占領を成し遂げたが、一部の守備隊残存兵士はゲリラ戦で執拗に抵抗を行う。米軍は飛行場を直ちに整備、サイパン同様、日本本土への戦略爆撃の拠点とした。
 米国の準州となったグァムの地では、サイパン玉砕に次ぐ死傷者を出したが、これまで米側の発見による通報による遺骨受領以外の、日本政府の能動的な遺骨収集が実施されて来なかったことにより、大東亜戦時の玉砕地のなかで、戦没された日本兵士の96%以上が、未だに邦土に帰還していない唯一の地である。

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