玉砕の島の慰霊碑が泣いている

「諸君」2007年8月号より

笹幸恵(ジャーナリスト)

玉砕の島の慰霊碑が泣いている

 

戦友や遺族の心づくしの民間人建立慰霊碑が、「整理事業」の名の下に、政府の手で撤去され始めている。

 

「朽ち果てた慰霊碑」

 

 三、四軒の民家が、広場を囲むように点在している。その小さな集落を抜けると、ふいに視界が広がった。やしの木がポツリポツリと立っているほかは、見事なまでに何もない。そこは一面の焼け野原になっていた。

 

 焼畑農業のために開墾された土地だった。しかし耕す人もおらず、放置されたままになっている。焼けた枯れ草に埋もれるようにして、石塊が転がっていた。ところどころ黒く焼け、荒々しく砕かれて散らばっている大小いくつもの石。

 

 ガダルカナル島・ガバガ村で見たこの光景を、私は忘れることが出来ない。

 

 ガダルカナル島は昭和十七年八月、太平洋戦争中の陸戦において、日米が攻守所を代えた激戦地である。補給が途絶え、「撃つに弾なく、食うに糧なく」の圧倒的不利な状況で、日本軍の上陸将兵約三万四千名のうち、二万名近くがガダルカナル島で亡くなった。半数以上が戦闘による死ではなく、「餓死」または「病死」であった。悲惨な歴史を刻む島である。

 

 一方の米海兵隊は、ルンガ飛行場の奪回を企図し、約二万名がガダルカナル島の北岸中央部のテレレ海岸に上陸した。その海岸からやや内陸に入ったところに、ガバガ村はある。

 

 集落の裏手に、無造作に転がっている石塊。それはかつて、この地で戦った日本兵を偲んで建立された慰霊碑の残骸だった。二〇〇五年一月のことである。島民の記憶によると、ここには十五柱の遺骨が納められていたという。しかし、いつ、誰が建立したものなのか、今となっては、もはや探り当てる術もない。

 

 訪れる人もなく、朽ち果てるに任せたままの慰霊碑。風化していくのは戦争の記憶ばかりではない。この地で戦い、飢えに苦しみ、病に斃れた兵士たちを弔うために建立された慰霊碑もまた、歳月と共に忘れ去られようとしているのだ、と思った。

 

 私は二〇〇五年から二年あまり、十箇所にのぼる太平洋の島々を歩き、各地でいくつもの民間人建立慰霊碑を目にしてきた。もちろん管理が行き届いているものもある。しかしあるものは打ち果て、土台しか残っておらず、あるものは陸路が閉ざされ、慰霊碑そのものを確認することすらできなかった。また銘版や観音像が盗まれたり、落書きされているものもあった。

 

 これが国のために命を捧げた人々に対する日本の、いや日本人の慰霊のあり方だとは信じたくない。しかし現実は、我々の父祖の多くが傷つき、死んでいった地を訪れる人々は年々減少しているのである。

 

「ビジョンなき政府の海外調査」

 

 私は戦後三十年経ってから生まれた、まさに、「戦争を知らない世代」である。物心ついたとき、高度経済成長期はすでに終わり、文明の利器に囲まれ、先の戦争について詳しく知る機会のないまま、漫然と過ごしてきた。ガダルカナル島を訪れた経緯については後述するが、かつての激戦地における慰霊碑の現状を目の当たりにして、衝撃と同時に強烈な違和感を覚えた。このままで本当にいいのだろうかと。

 

 以来、憑かれたように太平洋の島々へ、慰霊の旅に出かけるようになった。ガダルカナル島をはじめニュージョージア島、ブーゲンビル島、そしてタラワ、マキン、サイパン。テニアン、硫黄島・・・といった具合である。

 

 そこでの体験について近著『女ひとり玉砕の島を行く』(文藝春秋刊)で詳述しているが、慰霊の旅を通じて、私たちの世代はたった六十余年前のことすら何も知ろうとはしていなかったと気づかされた。

 

 生還者はほとんどがすでに八十代である。ある人は、息子夫婦の世話になりながら、家を売り払ったお金で慰霊巡礼や遺骨収集へ積極的に参加している。また別のある人は、十二年のあいだに二十六回も自らが戦った場所を訪れ、五年間の交渉の末、現地に観音像を建立した。

 

 彼は戦時中、ブーゲンビル島に上陸している、そこで警戒の任務についていた際、艦砲射撃によって左足首を負傷した。その後、部隊に撤退命令が出たが、歩くことができない。捕虜になるという選択肢はなかった。自決のほかない―そう覚悟を決めたとき、撤退したはずの戦友たちが担架を持って助けに駆けつけて来てくれた。戦友たちは兵站病院へと彼を送り届けた後、最前線へと出て行き、全員が戦死した。彼は口癖のように言った。

 

 「今の私があるのは、戦友のお陰なんです。」

 

 老兵たちは、多かれ少なかれ「戦友に助けられた」という経験をしている。あるいはほんの数センチの差で、戦友は銃弾に斃れ、自分は生き残ったという体験を持つ人も少なくない。苛烈な戦場を生き延びてきた彼らにとって、現地に慰霊碑を建立しその御霊を慰めることは、彼らにできるせめてもの弔いの方法なのである。

 

 とはいえ、南方の島々における慰霊の旅は観光旅行とはまったく別物であることは言うまでもない。慌しく現地食をすませると、道なき道を進み、炎天下で慰霊祭を執り行う。宿にもどって一息つこうにも、宿泊施設の設備も十分ではないところが多い。あらゆる場面で不便を強いられる。慰霊巡拝のメンバーの中ではきわだって若い私ですら、体力的にも、精神的にもきつく、弱音をはいてしまいそうになることがたびたびあった。

 

 そんな中、日本でなら電車で席を譲られるような年代の人々が背筋をピンと伸ばし、文句一つ言わず、体調を崩すこともなく、粛々と南国の島を歩き回り慰霊を行っているのである。

 

 私が慰霊碑問題に興味をもったきっかけは、海外の民間人建立慰霊碑が朽ち果てているという新聞記事(二〇〇四年七月三日・朝日新聞)だった。厚生労働省が把握している慰霊碑五百八十七基のうち、「管理不良」もしくは「不明」とされたものは約四割にものぼっているという。その実態を確かめるべく、同行取材をしたのが、ガダルカナル島だった。

 

 しかし、実際に現地に行ってみると、事前の資料(現地の大使館などからの情報により、作成された慰霊碑のリスト。これを基に厚生労働省から委託された調査員が調査を行う)では把握されていなかったものが見つかるケースが少なくなかった。それらは、建立者も建立時期も把握できないものがほとんどだ。

 

 冒頭に紹介した、ガバガ村の破壊された慰霊碑も、たまたま米海兵隊の上陸地点に足を伸ばしていた私たち一行が、現地の島民から教えてもらったものである。したがって「管理不良」や「不明」の慰霊碑は、新聞報道よりもはるかに多いというのが私の実感だ。

 

 厚生労働省では、平成十五年から三ヶ年計画で、海外に在る民間人建立慰霊碑の調査を行っている。しかし取材を進めていくにつれ、調査そのものが付け焼刃で行われている印象を受けた。

 

 取材を始めた当初、厚生労働省の担当者は、「個人の意思で建立された民間慰霊碑は、税金を使って補修や再建を行うことはできない」と語っていた。もちろん戦友会や遺族といった、いわば個人的感情で建立された慰霊碑に対して、税金を無制限に使うことは避けるべきであろう。しかし、その一方で「これから慰霊碑を建立したいという遺族もいるが、その場合、国としては止める理由はない」としているのは、長い目で見れば一貫性を欠く。

 

 遺族感情に配慮した結果と好意的に解釈できなくもない。だが、税金を使って補修・再建できないというなら、民間人が建立する慰霊碑に対し、国として一定の制約を設けるべきではないか。新しく建立された慰霊碑も、歳月を経れば、再び税金を使って調査することになるのである。

 

「戦友を悼み、父を偲ぶ」

 

 それでも、調査事業に目処がつけば何らかの方針が見出されるものと考えていたのだが、調査事業が三年を経過した今、厚生労働省では“整理事業”に着手している。「管理不良」や「不明」とされた慰霊碑を、建立者や現地住民の了解を得て撤去するというものだ。しかし、現時点で「管理良好」とされた慰霊碑については、何の対策も講じていない。現在「管理良好」な慰霊碑であろうと、歳月を経れば「管理不良」や「不明」となる可能性は十二分にある。そのたびに税金を使って調査し、保存状態を分類し、やがては撤去していくのだろうか。目下朽ち果てかけている慰霊碑を撤去していくだけでは、問題の先送りに過ぎないのではないか。

 

 私は、慰霊碑の撤去が税金の無駄遣いなどとは思わない。むしろ長期的なビジョンを持たないままその場しのぎで調査・整理を行うことこそ、税金の無駄遣いだと思う。

 

 生還者や遺族の中には、慰霊碑の建立に反対する人もいる。慰霊碑を建てたところで、一体誰が継承し、維持・管理を行っていくのか。それが明確になっていないのに建立するのはあまりに無計画ではないかという意見。一方で、現地の住民感情に配慮すべきだという意見もある。現地の住民にとって見れば、日本は勝手に戦争を起こして、他人の土地に土足で入ってきたのだ。今また、自分たちの同胞のために慰霊碑を立てたいと言って入り込むのは、虫が良すぎるのではないか、と。

 

 それぞれにもっともな意見である。しかし、こうした批判は、本来、個人で慰霊碑を建立した人々に対して向けられるべきものではない。そもそも戦争は、個人が起こしたものではないからだ。

 

 慰霊碑の中には、昭和五十年前後に建立されたものが目につく。たとえばガダルカナル島で激戦が繰り広げられた「血染めの丘」の慰霊碑は、昭和五十年前後の建立である。同じくナナ村にある、野戦重砲兵第二十一大隊第二中隊の巡拝団が建立した慰霊碑は昭和五十六年、ブーゲンビル島キエタにある歩兵第四十五聯隊の慰霊碑は昭和五十八年建立のもの。例を挙げればキリがないが、いずれにしても、これは生還者がその後、戦後の混乱期を生き抜きようやく定年を迎えつつあった時期と重なっている。

 

 下士官だったある人は、以前、私にこう語ってくれた。

 

 「死ぬのはまだ早い。お前にはやることが残っているだろう。そう戦友が語りかけてくるような気がするんです」

 

 彼は会社を定年退職してからというもの、戦友会の事務局長として運営の一切を取り仕切り、慰霊巡拝の旅で遺族たちを引率している。

 

 誰もが生きるのに必死だった時代、それが一段落ついて、ようやく戦時中の出来事に思いを馳せることができるようになったとき、彼らの胸に去来したものは、「何とかして異国の地に眠る戦友たちに報いたい」という思いだったろうと思う。自分たちがやらなければ、誰がやる。慰霊碑は、戦没者への思いが込められているばかりでなく、戦争を生き延びてきた彼らの人生に対する思いの発露でもあるのだ。

 

 さらにこうして建立された慰霊碑は今、遺族の心の拠りどころになっている。もちろん、遺族感情といっても人により様々であるから、一言で括ることはできないが、少なくとも私が慰霊巡拝の旅で一緒になった遺族たちは、慰霊碑を前に、亡き「父」と対面している人が多かった。彼らもまた父のいない半生をやっとの思いで生き抜き、定年を迎えている。ようやく自分の時間が持てるようになったとき、思うのは父親のことである。そうして彼らは、父が亡くなった場所へ実際に赴いて慰霊をしたいと、かつての激戦地に足を運ぶ。

 

 日本遺族会会長の古賀誠氏は四年前、父親が亡くなったフィリピン・レイテ島を訪れた、戦地へ足を運んでいる数少ない政治家の一人だ。彼はこう語っている。

 

 「二歳のときに出征した父の記憶は全くありません。しかし、父が亡くなった場所を訪れたとき、私は、父の存在をはじめて認識しましたよ。それまで母の苦労する姿しか見てこなかった。だけど、初めて父親という存在を――あなたがいたから今の私がある――ということを実感したんです。

 

 父に祈りを捧げようとした瞬間、にわかに曇り、土砂降りの雨になったことを今でも強烈に覚えています。そして慰霊行事が終わって引き上げようとした途端、今までの雨がウソのように、再び晴れ上がった。ああ、父は待っていたのだ、何かを伝えたかったのだ、と思いました」

 

 はるばる現地を訪ね、慰霊碑を前にして、「お父さ~ん」と声を限りに叫ぶ遺族。炎天下、直立不動でひたすら読経する遺族。戦後の自分の半生を手紙にしたためて読み上げる遺族もいる。「ここに親父がいるのだから」と、黙々と慰霊碑周辺の掃除を続ける――。これは、多くの遺族に共通する思いではないだろうか。

 

 彼らの気持ちを百パーセント理解できるなどといえば、僭越に過ぎるだろう。しかし慰霊碑を前にした遺族たちの姿をみれば、戦没者慰霊が税金の問題でも、まして風化したからといって杓子定規に碑を撤去して「ハイ、終わり」で済むような容易な問題でもないことが、身に沁みてわかる。

 

「欧米の慰霊の実態」

 

 一方、対戦中に戦地となった太平洋の島々を訪れてみると、米国の慰霊碑が立派なことに驚く。サイパンでは、繁華街であるガラパン地区に、広大な敷地の米国記念公園があるが、中心部には記念塔が建ち、戦没者の名前を刻んだ御影石で囲まれている。現地の人によれば、そこには米国と共に戦った島民たちの名も合わせて記されているという。

 

 ガダルカナル島では、堺台という首都ホニアラを見下ろせる高台に戦争記念塔が建立されている。白い壁が周囲を取り囲み、入り口には守衛が立っている。許可を得て中に入ると、戦闘経過や戦没者の名前を刻んだ石碑が整然と並んでいる。もちろん落書きもなければ、銘盤を盗まれることもない。

 

 日本の慰霊碑と比較したとき、この差は一体何なのだろう。戦没者に対して感謝の念と追悼の気持ちを捧げることに、戦勝国も敗戦国もないはずだ。

 

 たとえば、その好例がエジプトのエル・アラメインにある。ガダルカナル戦と同時期の一九四二年夏、連合国と枢軸軍が死闘を繰り広げた北アフリカ戦線の激戦地である。名将モントゴメリー将軍と“砂漠の狐”ことロンメル将軍の名をご記憶の方も多いだろう。

 

 アレキサンドリアから西に約百キロ、地中海を望む海岸線に位置するエル・アラメインとその周辺には連合軍のほか、ドイツ、イタリア、ギリシャなど各国の記念塔や追悼施設が戦争終結直後から建立され、現在にいたるまで手厚い慰霊が行われているという。

 

 町の中心にある「英国および英連邦戦没者の国立墓地」に埋葬・慰霊される戦没者の数は七千九百七十人。英国の支配下にあった国々からの参戦者もその中には含まれる。教会も擁する広大な敷地には戦没者の名を刻んだ白い石の墓標が放射線状に整然と立ち並び、さらに正面アーチの壁面いっぱいに、隊ごとに戦没者名が刻まれている。

 

 警備担当者によると、入口の純白のアーチは砂埃がひどいので、毎年白く塗り変えているのだという。そうでなくても、灌木以外にほとんど何もない砂漠の真ん中でブーゲンビリアが咲き、草木の手入れを欠かさない。戦後六十年を経てもこうして緑の庭園を維持していることこそ、特筆すべきだろう。

 

 二〇〇六年三月には、前年結婚したばかりのチャールズ皇太子とカミラ夫人が五日間のエジプト滞在中にアラメインを訪れ、国立墓地で黙祷し献花を行っている。

 

 北アフリカ戦線の戦没者の遺骨収集は戦後間もなくから始められ、連合軍の手から、敗戦国となったドイツ・イタリア兵たちの遺骨もそれぞれの国に早い時期に引き渡された。現在のドイツ、イタリアの慰霊塔は町の中心からやや離れた場所にある。閉鎖的な作りながらドイツは重厚な要塞風のレンガ造り、イタリアの慰霊塔は純白の大理石造りの六角形のモニュメントと、お国柄がうかがえるデザインで意匠を凝らしている。慰霊塔の中には、ドイツ軍は約四千名、イタリア軍は約四千八百名の戦没者が埋葬、あるいは慰霊されている。

 

 アラメインでは毎年十月二十三日(連合国側による反攻作戦の開始日)に各国の関係者がエジプト国防省管轄の軍事博物館に集まり式典の後、それぞれの国の慰霊塔で追悼のミサをとり行っている。

 

 こうした諸外国の慰霊の方法や追悼施設の存在は、何らかの示唆を与えてくれるのではないか。

 

 厚生労働省もこれまでに戦没者慰霊碑を海外に建立してはいる。硫黄島を含む東南アジア地域や太平洋の島々に十五基、旧ソ連に建立したソ連抑留中死亡者の小規模慰霊碑が六基。パプアニューギニアには、ウエワク(ニューギニア戦没者の碑)とラバウル(南太平洋戦没者の碑)にあるが、ガダルカナル島にはない。私が二〇〇五年九月に訪れたとき、ラバウルの慰霊碑は火山灰が降り積もっている状態だった。

 

 

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