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 この度戦史検定協会は、11月17日に実施した第四回戦史検定による事業収益を米領グアム島ジーゴ地区にある日本軍慰霊碑の整備支援のため活用することとし、5月16日から18日まで当協会所属会員3名をグアム島へと派遣し、整備に当たりましたことをご報告いたします。
 米領グアム島ジーゴ又木山々麓にある「平和慰霊公苑」は、南太平洋戦没者慰霊協会(South Pacific Memorial Association、以下SPMA)が維持・管理を行っており、グアム島を含む太平洋戦域に於いて戦没された50万余柱の英霊を合祀する表徴的慰霊塔と平和を祈る家を建設し、諸霊位を慰め、世界の恒久平和を祈念するものであります。建立地点である米領グアム島ジーゴ又木山々麓は、小畑中将軍司令官率いる日本守備軍玉砕の地であり、平和慰霊公苑内には小畑中将以下60名が自決したとされる壕があります。
 平和慰霊公苑は昭和45年5月の完成以来、現在に至るまでSPMAが維持・管理をしてきましたが、慰霊塔のペンキは剥がれ落ち、小畑中将以下60名が自決されたとされる壕周辺は、竹藪が縦横無尽に繁茂しておりました。


ペンキが剥がれ、汚れの目立つ慰霊塔

 

現地有志の方々と協力して竹藪を伐採する

 

このような状況を見かね、地元のオコド高校(Okkodo High School)の生徒有志とAmericorpsボランティアの協力を得、合計25名が、慰霊碑修繕および竹藪伐採を行いました。
活動では、小畑中将以下60名が自決したとされる壕周辺の竹藪の伐採のほか、全高15メートルの慰霊塔のペンキ塗りを、足元は人力で、高所については高所作業者を用い行い、慰霊公苑周辺の整備を行いました。


竹藪を伐採する協会員

 

高所作業者でペンキを塗る協会員

 

手の届く所をペイントする協会員

 

これにより、第4回検定助成事業は、検定収入と寄付金から、活動に際し必要な経費のほか、南太平洋戦没者慰霊協会の募る慰霊公苑改修工事、戦歿者石碑建立基金に、「第4回戦史検定受検者一同」名義にて、10万円の寄付を、参加した平野隊員からSPMA青木理事へ手交いたしました。


SPMAの青木氏に目録を手渡す様子

 

これにより、この地域の戦没者ご遺族やこの地域を訪れる方々が、綺麗に化粧直しされた同公苑において、引き続き慰霊を続けられる一助になることを望むものです。


ペンキ塗りをした後の慰霊塔

 

竹藪を伐採後の壕周辺の様子。道が見えるようになりました。

 

 当協会は、戦史検定による収益により維持管理が困難な慰霊碑修復に資金および労力による協力をすることで、今後も戦没者慰霊碑追悼に貢献してまいります。

 

 なお、平成22年度に実施した第1回戦史検定では、財団法人太平洋戦争戦没者慰霊協会を通じて、事業収入をソロモン諸島共和国ガダルカナル島のソロモン平和慰霊公苑の慰霊碑修復と周辺の整備事業資金に、平成23年度の第2回戦史検定では事業収入と寄付金を財団法人福島県遺族会を通じて、東日本大震災で被災した福島県内の慰霊碑修復に、そして平成24年度の第3回戦史検定では、パラオ本島慰霊碑建設委員会の代表、故木村清吉氏の御遺族代表である木村清氏を通じて、事業収入と寄付金をパラオ共和国マルキョク州ゲルレメリク地区のパラオ本島慰霊碑の修復にそれぞれ充てております。

 

※グアム島の戦い
 グアム島は大戦前、マリアナ諸島中の島で唯一米国統治下にあったが、開戦劈頭に日本軍が攻略。その後、日本の絶対国防圏内の要衝として、2年をかけて強固な防御陣地を構築し、米軍奪還が予測される昭和19年には29師、独混48を増派し守備隊は二万となった。
 昭和19年7月21日、米軍は守備隊の三倍の兵力である77師、海兵3師を派遣したが、日本軍はサイパン同様に水際作戦で侵攻を阻止しようとするが、艦砲、空爆等の激しい攻撃による米軍上陸を食い止められず、凄惨な白兵戦やバンザイ突撃を敢行するも、撃破され、7月28日には師団長の高品彪中将が戦死。8月11日に小畑軍司令官がジーゴで自決、日本軍の組織的な抵抗は終結した。米軍は北部に達し、島の完全占領を成し遂げたが、一部の守備隊残存兵士はゲリラ戦で執拗に抵抗を行う。米軍は飛行場を直ちに整備、サイパン同様、日本本土への戦略爆撃の拠点とした。
 米国の準州となったグァムの地では、サイパン玉砕に次ぐ死傷者を出したが、これまで米側の発見による通報による遺骨受領以外の、日本政府の能動的な遺骨収集が実施されて来なかったことにより、大東亜戦時の玉砕地のなかで、戦没された日本兵士の96%以上が、未だに邦土に帰還していない唯一の地である。

平成23年12月19日

戦史検定協会実行委員長 笹幸恵

福島県慰霊碑修復事業支援について

この度、戦史検定協会(東京都千代田区)は、検定事業収入と一般からの寄付金の合計80万円を東日本大震災で破損した慰霊碑の修復支援のため財団法人福島県遺族会に寄贈いたしました。われわれ戦史検定協会のスタッフは12月12日に福島市堂殿の福島県遺族会事務所を訪ねてこの寄付金を贈呈の後、二本松市内の破損した慰霊碑を視察して地震による損傷を確認しました。その詳細は以下のとおりです。

11月20日、当協会は第二回目となる「戦史検定」を実施いたしました。私共は、かつての激戦地や出征の地などに建立された戦没者慰霊碑の風化や破損を憂い、ご遺族や戦友の方々が安心して慰霊追悼を続けられるよう、事業収入を慰霊碑の保全に充てる目的で本検定を行っています。平成22年11月に実施した第一回戦史検定では、財団法人太平洋戦争戦没者慰霊協会を通じて、事業収入10万円をソロモン諸島国ガダルカナル島のソロモン平和慰霊公苑の慰霊碑の修復と周辺の整備事業の資金に充てていただきました。

今回この慰霊碑保全の趣旨に賛同し、受検くださった方は初級223名、中・上級(同一試験のうち高得点者を上級と認定、上級未満・合格点以上を中級認定)133名で、うち64名が両方の試験を受検しています。この結果、受検料(初級3,800円、中・上級5,500円、両者同時受検の場合は9,000円)収入と寄付金を合わせた収益20万円と、試験後にいただいた個人からの篤志60万円の合計80万円を福島県遺族会に寄贈し、東日本大震災で損傷を受けた慰霊碑の修復に充てていただくことといたしました。

福島県内には、財団法人福島県遺族会(会員数約12,000、以下県遺族会)が把握しているだけで522基の慰霊碑がありますが、その多くが今次東日本大震災で破損しました(正確な数は現在調査中)。県遺族会では50万円以内で修復可能な慰霊碑に限り、その修復費の45%を補助する方針を立てて破損した慰霊碑の原状回復を行っていて、年内に県内の34地区で慰霊碑修復を行う予定です。当協会は、戦史検定による収益により県遺族会の慰霊碑修復に資金協力することで、戦没者慰霊追悼に貢献するとともに、復興に取り組む東北の方々を応援したいと考えております。

このため、実行委員長である私笹幸恵、戦史検定協会事務局長、問題作成担当、慰霊碑調査担当と学生運営委員の計5名で12月12日午後福島県遺族会を訪れ、前述の80万円を同遺族会会長に贈呈いたしました。遺族会事務所には約1時間ほど滞在して戦史検定の結果を報告し、福島県遺族会の現状や遺族会事務局員のご親族戦死の場所などを伺いました。

つづいて二本松市内の安達地方遺族連合会の方々に同地区の慰霊碑をご案内いただき、倒壊した岳下地区の忠魂碑と大山地区忠霊塔の破損状況を確認いたしました。岳下の慰霊碑は戊辰戦争の二本松の戦いの激戦地になった大壇口古戦場の小山の上にあって、付近には会津白虎隊と同じく年少の身で薩長軍と戦った二本松少年隊の慰霊碑もあり、地元の方々には何重にも思い入れの深い土地と感じられました。この見晴しの良い場所に立つ忠魂碑は台座から隣の慰霊碑と共に倒壊して無残に横倒しになっていて胸が痛みます。この山の上は地盤が軟弱で重機を入れることもままならず、この地での再建は難しい見込みです。

一方の大山地区忠霊塔は塔の基部に納骨堂がある珍しい様式で、公園として整備された敷地の中には地区の戦死者115名一人ひとりの顔写真を集めた写真堂が併設されていて地域の方々の慰霊追悼の中心地となっていたのですが、忠霊塔は倒壊した衝撃で中央から折れてしまっています。どちらの慰霊碑も復旧は困難であると遺族連合会からは説明を受けました。

どの地区でも戦没者ご遺族の方々も高齢化し、また代替わりして慰霊碑修復のための資金を集めることが難しく、県遺族会でも前述のとおり部分的に支援するに留まっています。われわれ戦史検定協会からの寄付を修復費用の足しにしていただくと同時に、この活動が呼び水となってさらに多くの支援が全国から寄せられることを願ってやみません。

 

「諸君」2007年8月号より

笹幸恵(ジャーナリスト)

玉砕の島の慰霊碑が泣いている

 

戦友や遺族の心づくしの民間人建立慰霊碑が、「整理事業」の名の下に、政府の手で撤去され始めている。

 

「朽ち果てた慰霊碑」

 

 三、四軒の民家が、広場を囲むように点在している。その小さな集落を抜けると、ふいに視界が広がった。やしの木がポツリポツリと立っているほかは、見事なまでに何もない。そこは一面の焼け野原になっていた。

 

 焼畑農業のために開墾された土地だった。しかし耕す人もおらず、放置されたままになっている。焼けた枯れ草に埋もれるようにして、石塊が転がっていた。ところどころ黒く焼け、荒々しく砕かれて散らばっている大小いくつもの石。

 

 ガダルカナル島・ガバガ村で見たこの光景を、私は忘れることが出来ない。

 

 ガダルカナル島は昭和十七年八月、太平洋戦争中の陸戦において、日米が攻守所を代えた激戦地である。補給が途絶え、「撃つに弾なく、食うに糧なく」の圧倒的不利な状況で、日本軍の上陸将兵約三万四千名のうち、二万名近くがガダルカナル島で亡くなった。半数以上が戦闘による死ではなく、「餓死」または「病死」であった。悲惨な歴史を刻む島である。

 

 一方の米海兵隊は、ルンガ飛行場の奪回を企図し、約二万名がガダルカナル島の北岸中央部のテレレ海岸に上陸した。その海岸からやや内陸に入ったところに、ガバガ村はある。

 

 集落の裏手に、無造作に転がっている石塊。それはかつて、この地で戦った日本兵を偲んで建立された慰霊碑の残骸だった。二〇〇五年一月のことである。島民の記憶によると、ここには十五柱の遺骨が納められていたという。しかし、いつ、誰が建立したものなのか、今となっては、もはや探り当てる術もない。

 

 訪れる人もなく、朽ち果てるに任せたままの慰霊碑。風化していくのは戦争の記憶ばかりではない。この地で戦い、飢えに苦しみ、病に斃れた兵士たちを弔うために建立された慰霊碑もまた、歳月と共に忘れ去られようとしているのだ、と思った。

 

 私は二〇〇五年から二年あまり、十箇所にのぼる太平洋の島々を歩き、各地でいくつもの民間人建立慰霊碑を目にしてきた。もちろん管理が行き届いているものもある。しかしあるものは打ち果て、土台しか残っておらず、あるものは陸路が閉ざされ、慰霊碑そのものを確認することすらできなかった。また銘版や観音像が盗まれたり、落書きされているものもあった。

 

 これが国のために命を捧げた人々に対する日本の、いや日本人の慰霊のあり方だとは信じたくない。しかし現実は、我々の父祖の多くが傷つき、死んでいった地を訪れる人々は年々減少しているのである。

 

「ビジョンなき政府の海外調査」

 

 私は戦後三十年経ってから生まれた、まさに、「戦争を知らない世代」である。物心ついたとき、高度経済成長期はすでに終わり、文明の利器に囲まれ、先の戦争について詳しく知る機会のないまま、漫然と過ごしてきた。ガダルカナル島を訪れた経緯については後述するが、かつての激戦地における慰霊碑の現状を目の当たりにして、衝撃と同時に強烈な違和感を覚えた。このままで本当にいいのだろうかと。

 

 以来、憑かれたように太平洋の島々へ、慰霊の旅に出かけるようになった。ガダルカナル島をはじめニュージョージア島、ブーゲンビル島、そしてタラワ、マキン、サイパン。テニアン、硫黄島・・・といった具合である。

 

 そこでの体験について近著『女ひとり玉砕の島を行く』(文藝春秋刊)で詳述しているが、慰霊の旅を通じて、私たちの世代はたった六十余年前のことすら何も知ろうとはしていなかったと気づかされた。

 

 生還者はほとんどがすでに八十代である。ある人は、息子夫婦の世話になりながら、家を売り払ったお金で慰霊巡礼や遺骨収集へ積極的に参加している。また別のある人は、十二年のあいだに二十六回も自らが戦った場所を訪れ、五年間の交渉の末、現地に観音像を建立した。

 

 彼は戦時中、ブーゲンビル島に上陸している、そこで警戒の任務についていた際、艦砲射撃によって左足首を負傷した。その後、部隊に撤退命令が出たが、歩くことができない。捕虜になるという選択肢はなかった。自決のほかない―そう覚悟を決めたとき、撤退したはずの戦友たちが担架を持って助けに駆けつけて来てくれた。戦友たちは兵站病院へと彼を送り届けた後、最前線へと出て行き、全員が戦死した。彼は口癖のように言った。

 

 「今の私があるのは、戦友のお陰なんです。」

 

 老兵たちは、多かれ少なかれ「戦友に助けられた」という経験をしている。あるいはほんの数センチの差で、戦友は銃弾に斃れ、自分は生き残ったという体験を持つ人も少なくない。苛烈な戦場を生き延びてきた彼らにとって、現地に慰霊碑を建立しその御霊を慰めることは、彼らにできるせめてもの弔いの方法なのである。

 

 とはいえ、南方の島々における慰霊の旅は観光旅行とはまったく別物であることは言うまでもない。慌しく現地食をすませると、道なき道を進み、炎天下で慰霊祭を執り行う。宿にもどって一息つこうにも、宿泊施設の設備も十分ではないところが多い。あらゆる場面で不便を強いられる。慰霊巡拝のメンバーの中ではきわだって若い私ですら、体力的にも、精神的にもきつく、弱音をはいてしまいそうになることがたびたびあった。

 

 そんな中、日本でなら電車で席を譲られるような年代の人々が背筋をピンと伸ばし、文句一つ言わず、体調を崩すこともなく、粛々と南国の島を歩き回り慰霊を行っているのである。

 

 私が慰霊碑問題に興味をもったきっかけは、海外の民間人建立慰霊碑が朽ち果てているという新聞記事(二〇〇四年七月三日・朝日新聞)だった。厚生労働省が把握している慰霊碑五百八十七基のうち、「管理不良」もしくは「不明」とされたものは約四割にものぼっているという。その実態を確かめるべく、同行取材をしたのが、ガダルカナル島だった。

 

 しかし、実際に現地に行ってみると、事前の資料(現地の大使館などからの情報により、作成された慰霊碑のリスト。これを基に厚生労働省から委託された調査員が調査を行う)では把握されていなかったものが見つかるケースが少なくなかった。それらは、建立者も建立時期も把握できないものがほとんどだ。

 

 冒頭に紹介した、ガバガ村の破壊された慰霊碑も、たまたま米海兵隊の上陸地点に足を伸ばしていた私たち一行が、現地の島民から教えてもらったものである。したがって「管理不良」や「不明」の慰霊碑は、新聞報道よりもはるかに多いというのが私の実感だ。

 

 厚生労働省では、平成十五年から三ヶ年計画で、海外に在る民間人建立慰霊碑の調査を行っている。しかし取材を進めていくにつれ、調査そのものが付け焼刃で行われている印象を受けた。

 

 取材を始めた当初、厚生労働省の担当者は、「個人の意思で建立された民間慰霊碑は、税金を使って補修や再建を行うことはできない」と語っていた。もちろん戦友会や遺族といった、いわば個人的感情で建立された慰霊碑に対して、税金を無制限に使うことは避けるべきであろう。しかし、その一方で「これから慰霊碑を建立したいという遺族もいるが、その場合、国としては止める理由はない」としているのは、長い目で見れば一貫性を欠く。

 

 遺族感情に配慮した結果と好意的に解釈できなくもない。だが、税金を使って補修・再建できないというなら、民間人が建立する慰霊碑に対し、国として一定の制約を設けるべきではないか。新しく建立された慰霊碑も、歳月を経れば、再び税金を使って調査することになるのである。

 

「戦友を悼み、父を偲ぶ」

 

 それでも、調査事業に目処がつけば何らかの方針が見出されるものと考えていたのだが、調査事業が三年を経過した今、厚生労働省では“整理事業”に着手している。「管理不良」や「不明」とされた慰霊碑を、建立者や現地住民の了解を得て撤去するというものだ。しかし、現時点で「管理良好」とされた慰霊碑については、何の対策も講じていない。現在「管理良好」な慰霊碑であろうと、歳月を経れば「管理不良」や「不明」となる可能性は十二分にある。そのたびに税金を使って調査し、保存状態を分類し、やがては撤去していくのだろうか。目下朽ち果てかけている慰霊碑を撤去していくだけでは、問題の先送りに過ぎないのではないか。

 

 私は、慰霊碑の撤去が税金の無駄遣いなどとは思わない。むしろ長期的なビジョンを持たないままその場しのぎで調査・整理を行うことこそ、税金の無駄遣いだと思う。

 

 生還者や遺族の中には、慰霊碑の建立に反対する人もいる。慰霊碑を建てたところで、一体誰が継承し、維持・管理を行っていくのか。それが明確になっていないのに建立するのはあまりに無計画ではないかという意見。一方で、現地の住民感情に配慮すべきだという意見もある。現地の住民にとって見れば、日本は勝手に戦争を起こして、他人の土地に土足で入ってきたのだ。今また、自分たちの同胞のために慰霊碑を立てたいと言って入り込むのは、虫が良すぎるのではないか、と。

 

 それぞれにもっともな意見である。しかし、こうした批判は、本来、個人で慰霊碑を建立した人々に対して向けられるべきものではない。そもそも戦争は、個人が起こしたものではないからだ。

 

 慰霊碑の中には、昭和五十年前後に建立されたものが目につく。たとえばガダルカナル島で激戦が繰り広げられた「血染めの丘」の慰霊碑は、昭和五十年前後の建立である。同じくナナ村にある、野戦重砲兵第二十一大隊第二中隊の巡拝団が建立した慰霊碑は昭和五十六年、ブーゲンビル島キエタにある歩兵第四十五聯隊の慰霊碑は昭和五十八年建立のもの。例を挙げればキリがないが、いずれにしても、これは生還者がその後、戦後の混乱期を生き抜きようやく定年を迎えつつあった時期と重なっている。

 

 下士官だったある人は、以前、私にこう語ってくれた。

 

 「死ぬのはまだ早い。お前にはやることが残っているだろう。そう戦友が語りかけてくるような気がするんです」

 

 彼は会社を定年退職してからというもの、戦友会の事務局長として運営の一切を取り仕切り、慰霊巡拝の旅で遺族たちを引率している。

 

 誰もが生きるのに必死だった時代、それが一段落ついて、ようやく戦時中の出来事に思いを馳せることができるようになったとき、彼らの胸に去来したものは、「何とかして異国の地に眠る戦友たちに報いたい」という思いだったろうと思う。自分たちがやらなければ、誰がやる。慰霊碑は、戦没者への思いが込められているばかりでなく、戦争を生き延びてきた彼らの人生に対する思いの発露でもあるのだ。

 

 さらにこうして建立された慰霊碑は今、遺族の心の拠りどころになっている。もちろん、遺族感情といっても人により様々であるから、一言で括ることはできないが、少なくとも私が慰霊巡拝の旅で一緒になった遺族たちは、慰霊碑を前に、亡き「父」と対面している人が多かった。彼らもまた父のいない半生をやっとの思いで生き抜き、定年を迎えている。ようやく自分の時間が持てるようになったとき、思うのは父親のことである。そうして彼らは、父が亡くなった場所へ実際に赴いて慰霊をしたいと、かつての激戦地に足を運ぶ。

 

 日本遺族会会長の古賀誠氏は四年前、父親が亡くなったフィリピン・レイテ島を訪れた、戦地へ足を運んでいる数少ない政治家の一人だ。彼はこう語っている。

 

 「二歳のときに出征した父の記憶は全くありません。しかし、父が亡くなった場所を訪れたとき、私は、父の存在をはじめて認識しましたよ。それまで母の苦労する姿しか見てこなかった。だけど、初めて父親という存在を――あなたがいたから今の私がある――ということを実感したんです。

 

 父に祈りを捧げようとした瞬間、にわかに曇り、土砂降りの雨になったことを今でも強烈に覚えています。そして慰霊行事が終わって引き上げようとした途端、今までの雨がウソのように、再び晴れ上がった。ああ、父は待っていたのだ、何かを伝えたかったのだ、と思いました」

 

 はるばる現地を訪ね、慰霊碑を前にして、「お父さ~ん」と声を限りに叫ぶ遺族。炎天下、直立不動でひたすら読経する遺族。戦後の自分の半生を手紙にしたためて読み上げる遺族もいる。「ここに親父がいるのだから」と、黙々と慰霊碑周辺の掃除を続ける――。これは、多くの遺族に共通する思いではないだろうか。

 

 彼らの気持ちを百パーセント理解できるなどといえば、僭越に過ぎるだろう。しかし慰霊碑を前にした遺族たちの姿をみれば、戦没者慰霊が税金の問題でも、まして風化したからといって杓子定規に碑を撤去して「ハイ、終わり」で済むような容易な問題でもないことが、身に沁みてわかる。

 

「欧米の慰霊の実態」

 

 一方、対戦中に戦地となった太平洋の島々を訪れてみると、米国の慰霊碑が立派なことに驚く。サイパンでは、繁華街であるガラパン地区に、広大な敷地の米国記念公園があるが、中心部には記念塔が建ち、戦没者の名前を刻んだ御影石で囲まれている。現地の人によれば、そこには米国と共に戦った島民たちの名も合わせて記されているという。

 

 ガダルカナル島では、堺台という首都ホニアラを見下ろせる高台に戦争記念塔が建立されている。白い壁が周囲を取り囲み、入り口には守衛が立っている。許可を得て中に入ると、戦闘経過や戦没者の名前を刻んだ石碑が整然と並んでいる。もちろん落書きもなければ、銘盤を盗まれることもない。

 

 日本の慰霊碑と比較したとき、この差は一体何なのだろう。戦没者に対して感謝の念と追悼の気持ちを捧げることに、戦勝国も敗戦国もないはずだ。

 

 たとえば、その好例がエジプトのエル・アラメインにある。ガダルカナル戦と同時期の一九四二年夏、連合国と枢軸軍が死闘を繰り広げた北アフリカ戦線の激戦地である。名将モントゴメリー将軍と“砂漠の狐”ことロンメル将軍の名をご記憶の方も多いだろう。

 

 アレキサンドリアから西に約百キロ、地中海を望む海岸線に位置するエル・アラメインとその周辺には連合軍のほか、ドイツ、イタリア、ギリシャなど各国の記念塔や追悼施設が戦争終結直後から建立され、現在にいたるまで手厚い慰霊が行われているという。

 

 町の中心にある「英国および英連邦戦没者の国立墓地」に埋葬・慰霊される戦没者の数は七千九百七十人。英国の支配下にあった国々からの参戦者もその中には含まれる。教会も擁する広大な敷地には戦没者の名を刻んだ白い石の墓標が放射線状に整然と立ち並び、さらに正面アーチの壁面いっぱいに、隊ごとに戦没者名が刻まれている。

 

 警備担当者によると、入口の純白のアーチは砂埃がひどいので、毎年白く塗り変えているのだという。そうでなくても、灌木以外にほとんど何もない砂漠の真ん中でブーゲンビリアが咲き、草木の手入れを欠かさない。戦後六十年を経てもこうして緑の庭園を維持していることこそ、特筆すべきだろう。

 

 二〇〇六年三月には、前年結婚したばかりのチャールズ皇太子とカミラ夫人が五日間のエジプト滞在中にアラメインを訪れ、国立墓地で黙祷し献花を行っている。

 

 北アフリカ戦線の戦没者の遺骨収集は戦後間もなくから始められ、連合軍の手から、敗戦国となったドイツ・イタリア兵たちの遺骨もそれぞれの国に早い時期に引き渡された。現在のドイツ、イタリアの慰霊塔は町の中心からやや離れた場所にある。閉鎖的な作りながらドイツは重厚な要塞風のレンガ造り、イタリアの慰霊塔は純白の大理石造りの六角形のモニュメントと、お国柄がうかがえるデザインで意匠を凝らしている。慰霊塔の中には、ドイツ軍は約四千名、イタリア軍は約四千八百名の戦没者が埋葬、あるいは慰霊されている。

 

 アラメインでは毎年十月二十三日(連合国側による反攻作戦の開始日)に各国の関係者がエジプト国防省管轄の軍事博物館に集まり式典の後、それぞれの国の慰霊塔で追悼のミサをとり行っている。

 

 こうした諸外国の慰霊の方法や追悼施設の存在は、何らかの示唆を与えてくれるのではないか。

 

 厚生労働省もこれまでに戦没者慰霊碑を海外に建立してはいる。硫黄島を含む東南アジア地域や太平洋の島々に十五基、旧ソ連に建立したソ連抑留中死亡者の小規模慰霊碑が六基。パプアニューギニアには、ウエワク(ニューギニア戦没者の碑)とラバウル(南太平洋戦没者の碑)にあるが、ガダルカナル島にはない。私が二〇〇五年九月に訪れたとき、ラバウルの慰霊碑は火山灰が降り積もっている状態だった。

 

 

 

【歴史戦WEST】戦没者慰霊碑に日本人を豚に例える蔑称 中国人観光客? 南の島で〝反日〟…かみ終えたガムもなすりつけ  – 産経ニュース

 

産経新聞11月29日

 

東京新聞-戦史検定記事

 

戦史検定サンケイ記事(写)

 

産経戦史検定40×40

 

 

■ガダルカナル島における慰霊碑の現状について

 

 先の大戦における戦局の転換点とされるガダルカナル島(以下ガ島)を巡る戦いでは、約半年の攻防戦に投入された陸兵3万余のうち2万2千あまりが戦死し、また補給の困難からこの島がガ島転じて「餓島」すなわち飢餓の島と呼ばれたことは良く知られています。激戦地として有名ながら、しかしガ島には政府建立の慰霊碑がありません。これは、原則「一戦域一慰霊碑」とし、南東方面(戦争当時の海軍の呼称)ではラバウルに公的慰霊碑を建立するという日本政府の方針によります。公式な慰霊碑がなかったガ島に相応しい慰霊の場をつくるため、財団法人南太平洋戦没者慰霊協会(現太平洋戦争戦没者慰霊協会)は政府厚生省(当時)の側面支援を受けながら、各方面からの浄財により昭和55年(1980年)10月に激戦地アウステン山中腹に慰霊碑を建立し、ソロモン平和慰霊公苑を整備しました。以来、同慰霊公苑はガ島における代表的慰霊の地となり、遺骨収集の際の焼骨式、慰霊巡拝などでの慰霊祭の舞台となってきました。

 

 この他、ガ島には全国ソロモン会慰霊碑(コカンボナ)、第二師団勇会建立の慰霊碑(ムカデ高地と島西北端のタンベア)、福岡ホニアラ会建立の百二十四聯隊慰霊碑(ムカデ高地→ホニアラ市内)、一木支隊鎮魂碑(テナル教会)、「岡部隊奮戦の地」碑(ギフ高地:元は「稲垣大隊奮戦の地」の木柱として建立)、「一木支隊奮戦の地」碑(イル川河口)など民間の慰霊碑が数多く建立されていますが、中には管理が行き届かず草に埋もれてしまったり塗料が剥げてしまったりしているものもあり、特に福岡ホニアラ会の慰霊碑は当初建立されたムカデ高地で二度にわたって慰霊碑の一部の石球が盗難に遭ったため、管理するために首都のホニアラ市内への移転を余儀なくされた経緯があります。

 

 ガダルカナル島(ガ島)を代表する慰霊碑は財団法人南太平洋戦没者慰霊協会(当時)の建立によるもの。アウステン山中腹に立つ同慰霊碑には日本語と英語による碑文が刻まれた銘板が埋め込まれていた。

 

 ソロモン平和慰霊公苑慰霊碑の銘板は金属価格高騰により盗難に遭い、その後発見されたも のの、慰霊碑に戻されることなく今も外されたまま。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 このように、ガ島の慰霊碑はその全てが民間建立ということもあり、比較的早い時期から管理上の問題が生じています。厳しい状況に輪を掛けたのが、ソロモン諸島の政治的混乱と、それに続く内乱状態でした。元々国家意識が発達しておらず、民衆の間では「ワントク」と呼ばれる部族単位の共同体が国家的統一より優先されていた社会で、ガ島に多くの移住者を定着させていたマライタ島出身者とガ島の元々の住民との間で対立が起こり、政治的混乱を機に2000年(平成12年)にガ島、マライタ島双方の民兵団同士による内乱状態に陥りました。この間、日本からガ島への渡航ができなかったこともあり、荒廃した慰霊碑が少なくありません。

 

 アウステン山の平和慰霊公苑に立つ、石巻市出身でガ島戦中の昭和17年11月2日戦死した彫刻家高橋英吉による「潮音」像。碑文プレートと同様に盗難に遭ったが運びきれず、公園近くに遺棄されたところを発見され、現在首都ホニアラ市内で保管中。

 

 今は台座のみが残り、「潮音」像が戻され修復される日を待ち続けてている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 また、もう一つ慰霊碑の荒廃に拍車を掛けたのが2008年(平成20年)の北京オリンピックを頂点とした金属価格の高騰です。オリンピック前の時期、鉄屑や銅地金の価格が高騰し、外国の業者が金属製品を高額で買い取るようになったため、日ごろ現金収入の機会に乏しいソロモンの住民の一部は、目に入る金属類を手当たり次第に回収して売りに出しました。この時に、碑文が刻まれた慰霊碑の銘板なども盗まれるケースが多く、ガ島を代表するアウステン山の慰霊碑と、同じ平和慰霊公苑内にあった、石巻市寄贈の「潮音」像が相次いで盗難に遭いました。幸い、慰霊碑の銘板と「潮音」像は後に回収されましたが、今も元の場所に戻されていません。

 

 ガ島コカンボナの碑(三角碑)は、厳密には日本人が建立したものではなく、ソロモン諸島防衛軍の退役軍人が日本兵顕彰のために建てたもの。もっとも、その後、日本の戦友会が整備を行っているので今はもう日本が管理する民間人建立慰霊碑と言えるかも知れない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 このような、憂うべき状況に危機感を抱いた有志は慰霊碑保全の費用捻出のため戦史検定事業を立ち上げ、検定費収入を慰霊碑の維持管理と補修に充てることとしています。昨平成22年11月に実施した第1回戦史検定では、事業収入10万円をソロモン平和慰霊公苑の慰霊碑と周辺の整備のため、財団法人太平洋戦争戦没者慰霊協会に寄贈しました。

 

 ガ島西部ヴィル村の私設戦争博物館(Vilu Village)敷地内に建立された慰霊碑の平成8年(1996年)の姿。左側慰霊碑には「平成魂」の文字や建立者の名前が読み取れ、二つの慰霊碑の間には「ガ島会」の寄贈した鐘が吊られている。

 

 上の写真から約8年後、ソロモン諸島国の内乱を経たヴィル村戦争博物館慰霊碑。すべて銘板がはがされ、ガ島会の鐘と左側慰霊碑の横にあった観音像も持ち去られてしまっている。